グルジの軌跡⑤ [KPJAYI HPより]

→グルジの軌跡⑥[ 一族への継承とその経過 ] →グルジの軌跡⑤ [ティーチング] →グルジの軌跡④[ ファミリー] →グルジの軌跡③[ ザ・マハラジャ] →グルジの軌跡②[ マイソール ] →グルジの軌跡①[ 幼少期 ] [ ティーチング ] 彼らの当初の生活は楽なものではなく、グルジはサンスクリット大学でヨガ指導を行っていましたが、1カ月10ルピの給与は5人家族の生活を保つのに充分とは言えず、暮らし向きが幾分か安定したのはグルジが50歳半ばで教授に就任したときでした。 1948年。 グルジはヨガを治癒的側面から実験するため、ラクシュミプラムのとても小さな2部屋の自宅にアシュタンガヨガ研究所(AYRI : 現KPJAYI)を設立します。 警察長官から執務官・医師まで地元の多くの職員達が彼とともに練習し、地元の医師達は、糖尿病、心臓および血圧の問題およびその他の様々な病気の治療を手助けするために患者をグルジの元へと送ったのでした。 1964年。 グルジは自宅の裏に12人の学生を収容できるヨガホールと二階の休憩室で構成された建物を増築します。 その同年に、ベルギー人のアンドレ・ヴァン・リースベスがグルジの元生徒であったスワミ・プルナナンダの推薦を受けAYRIに到着し、2ヶ月の間グルジはこの外国人にプライマリーとインターミディエイトを教えました。 その後すぐにヴァン・リースベスがグルジの写真の載った「プラナヤマ」と呼ばれる本を書きアシュタンガ・マスターをヨーロッパ人に紹介すると、彼らはのちにグルジを探し出しマイソールで学んだ最初の西洋人となり、1971年にはアメリカ人がその後に

グルジの軌跡④ [KPJAYI HPより]

→グルジの軌跡⑥[ 一族への継承とその経過 ] →グルジの軌跡⑤ [ティーチング] →グルジの軌跡④[ ファミリー] →グルジの軌跡③[ ザ・マハラジャ] →グルジの軌跡②[ マイソール ] →グルジの軌跡①[ 幼少期 ] [ ファミリー ] グルジがクリシュナマチャリヤから学んでいる間。 若く強い意思を持つ少女が、サンスクリット語の教授である父親と共に、大学での彼のヨガデモンストレーションを訪れ始めます。 そのとき僅か14歳であった少女サヴィトランマは、ある日のデモが終わったあとに父親へこう告げました。 ‘’わたし、彼と結婚したいわ’’と。 彼女の意思を快く受け入れた父親は、当時18歳であったグルジに近づき、彼を大学から20kmほど離れたナンジャングドの村にある自宅へと招きました。 グルジはその招待を、誠意をもって承諾したのでした。 グルジの父が二人の占星術での相性が不適応であったにも関わらずそうしたように、サヴィトランマの父も、この若きヨギについて.......彼のブラフミンとしての生き方・家族の背景などについて学んだのち、二人の結婚に同意したのでした。 「好相性であろうとなかろうと、私は彼と結婚したい」と宣言したサヴィトランマは、後に周囲に愛情を込め [ アンマ =母 ]の敬称で知られるようになります。 彼らはその年(1933年) 6月の満月の4日後。 アンマの誕生日に、相互の深い愛情のもと結婚しました。 婚礼ののちアンマは彼女の家族の元へ、そしてグルジは彼の大学の寮へ戻ります。 それからの3~4年間、彼らはお互いに会うことはなく、アンマがマイソールで夫と一

グルジの軌跡③[KPJAYI HPより]

→グルジの軌跡⑥[ 一族への継承とその経過 ] →グルジの軌跡⑤ [ティーチング] →グルジの軌跡④[ ファミリー] →グルジの軌跡③[ ザ・マハラジャ] →グルジの軌跡②[ マイソール ] →グルジの軌跡①[ 幼少期 ] [ ザ・マハラジャ ] グルジとクリシュナマチャリヤが再会した頃、マイソールのマハラジャ(*1)、シュリ・クリシュナ・ラジェンドラ・ウォディヤー (Sri Krishna Rajendra Wodeyar)(*2)は突然病気を患いました。 他のすべての療法で成果を得られなかったラジェンドラは、自らを助けることができるかもしれない素晴らしいヨギ・クリシュナマチャリヤの存在を知らされ、彼を宮殿へ呼び寄せました。 クリシュナマチャリヤはヨガを通じてマハラジャの病を治癒しました。 感謝の意をもって、マハラジャは彼のためにヨガシャラ(ヨガの修練場)を宮殿の敷地内に設立し、ヨガのデモンストレーション公演や、テキストの学習、他のヨガ学校やスタイルの調査・研究のために、グルジのような模範となる学生とともにクリシュナマチャリヤを国内中へ派遣しました。 宮殿のヨガシャラでは約100人の学生が養成されました。 マハラジャは特にグルジが好きで、ヨガのデモンストレーションを行うために早朝4時に宮殿に召喚しました。 1937年。 学生のままでいたいという当人の欲求に反し、マハラジャはグルジにサンスクリット語の大学でヨガを教えるよう命じました。 グルジは最初のヨガ学部を設立し、その後、彼の引退によりその学部が完全に閉鎖される1973年まで指揮をとりました。 マハラジャは1940年に亡

グルジの軌跡②[KPJAYI HPより]

→グルジの軌跡① [ 幼少時代 ] へ戻る [ マイソール ] グルジが14歳になったとき、彼はバラモンの少年達が一人の男性として精神的な生活に入るための式典(ウパナヤナン)でブラフミンの神聖な糸(ジャネウ)を授与されました。 その重要な式典のあとすぐポケットの中の2ルピーとともに、グルジは自宅を離れてマイソールのサンスクリット大学でサンスクリット語学を勉強しました。 列車を降りたあと彼は入学局をまっさきに訪れ、ブラフミンになる証として彼の糸を示し(ジャネウは彼の入学料免除の資格となりました)それは学校に承認されました。 彼は、丁寧に大学クラスへの出席と自分自身の研究を行いながらヨガの練習を続け、ヨガデモンストレーションにより大学の食堂で食費の免除を得ていました。 しかし少額の所持金で始まった当初の生活はグルジにとって困難なものであり、彼はブラフミンの家々に食事を請いました。 どこにいるのか、そして何をしていたのか、彼が父親に宛てて手紙を書いたのはその3年後のことです。 1932年。 彼が大学のヨガデモンストレーションに参加した際、ステージの上にいるヨギが彼の師であったシュリ・クリシュナマチャリア(Sri Krishnamacharya)(*1)であるのに気づいたことは彼をとても喜ばせました。 グルジがコウシカを去ったことにより絶たれていた彼らの繋がりでしたが、のちに25年間続く二人の関係性がマイソールで再開されたのでした。 → グルジの軌跡③ [ マハラジャ ]に続く → グルジの軌跡① [ 幼少時代 ] へ戻る 原文引用 / http://kpjayi.org

グルジの軌跡①[KPJAYI HPより]

KPJAYインスティテュートのHPからグルジ(パタビジョイス師)やシャラース師についての経歴を引用・翻訳しました。 翻訳・注訳は私が行いましたのでご指摘がありましたらおっしゃってください^^; →グルジの軌跡⑥[ 一族への継承とその経過 ] →グルジの軌跡⑤ [ティーチング] →グルジの軌跡④[ ファミリー] →グルジの奇跡③[ ザ・マハラジャ] →グルジの奇跡②[ マイソール ] →グルジの奇跡①[ 幼少期 ] /////////////////////////////////////////////////////////////// [ グルジ / 幼年時代 ] ヨガチャリヤ・シュリ・K・パタビジョイス(Yogacharaya Shri K. Pattabhi Jois : 敬称 グルジ )は1915年7月の満月の日に、カルナータカ州南部のマイソールから150キロ離れたコウシカという小さな村で生まれました。 彼の父親は、七十世帯近くの家族で構成された村の占星術師・司祭を務めていました。 グルジは9人兄弟の中男坊で、多くのブラフミン(神事に携わる司祭の家系)の男の子がそうであるように5歳からヴェーダ(聖典)とヒンドゥの儀式を学び始めました(*1)。 彼が12歳の時。 中学校で行われたヨガのデモンストレーションは、彼をより古典的な練習法の学習へとかき立てるものでした。 彼はこの新しい発見にとても興奮し、彼にとって最も印象的であり、 20世紀の最も高名なヨギのうちの一人でもあったSri T. Krishnamacharyaに会うために翌早朝に起床したのでした。 クリシュナマチ